cafe-bar DECEMBER 12

『デフォルメ』第9話            『Dな気分』トップページへ



「早いね」

 私の隣に座った彼が、うず高くなったチラシの束を端によけながら言った。

「休講だったんだよね」

「え?最近多くないか?」

「あたしに言われても」

「まあ、そうだけどさ」

 それから私たちは先程よりもずっと長くなっている行列に加わった。短い思案の末、史也はカレーライスを、私は盛りそばを選んだ。

「何か地味だよな、俺たち」

 お互いのトレイを見比べながら彼が言った。私は小さくうなずいた。

 既に学食内はほぼ満席状態だ。出遅れた学生や職員が僅かな空席を探している姿があちこちで見える。その様子はまるで大規模な椅子取りゲームだ。

自分の席に戻ると、私は喉奥の違和感を取り除く作業に入るべく、「ねえ、ロドプシンって何?」といささか唐突に聞いた。

「は?」

「昨日言ってたじゃない。ロドプシンがどうこうって」

 彼はキョトンとしていたが、すぐに「ああ」と小さく笑った。

 彼曰く。ロドプシンとは網膜にあるたんぱく質で、光を感じると反応してその刺激を脳に伝える役割があるのだという。つまりは暗い場所では増えて明るい場所では分解されるといった調整を絶えず行うことでその時々に応じているのだそうだ。

「目が慣れるって言うだろ。その時間帯でロドプシンが増えたり減ったりしてるんだよ。物を見るための裏方役って感じかな」

「・・・ふうん」

「余り伝わってないな」

 苦笑交じりに彼が言う。きっと私にも解るように言葉を選んで説明してくれたのだと思う。しかしある程度予想していた通り、そのほとんどは理解できなかった。

「ゴメン」

「別にいいよ。俺もそれほど詳しいわけじゃないし」

「あれだけ話せたのに?」

「うん」

 カレーライスを頬張りながら史也はうなずいた。

 光を感じるために目の奥で今も働いているロドプシン。彼からその話を聞かなければ恐らくずっと気にすることもなかった言葉だ。例え少しの理解だとしても、こうして史也と一緒にいるだけで私の世界が広がっていく。今まで見えなかった場所に光が当たる。それはそれで素晴しいことに違いない。

「あ、そろそろ午後の講義、始まるな」

 学食内の喧騒に比例して、昼食の時間は慌ただしく過ぎ去る。食器を戻して外へ出た。

「それじゃ、また後で」

「うん」

史也が歩き出すのを見届けてから私も歩き出した。

新緑が生命力を迸らせながら学内を色濃く染めていた。最近は雑誌やテレビなどで来月に人類が絶滅するかもしれないといった大昔の予言に関する記事を頻繁に目にする。およそ真面目にやっているとは思えない内容でも、世間的には「もしかして」という空気があることも否めない。しかしこの新緑を見れば解る。これだけ瑞々しく葉を繁らせているのというのに、一体どんな天変地異が起こるというのか。きっと何事もなく時は過ぎる。それは驚くほどいつものように。

日差しが先程よりも強くなっているような気がする。後5分ほどで講義は始まるが、このまま光の中に身を浸したいほどの陽気だ。目の奥に鈍痛が走る。

「これもロドプシンの効果なのかな」

そう呟いて足を止めた。この瞬間、自主休講という名のサボタージュが決定した。後で真美子にノートを見せてもらおう。緑色の空気を深く吸い込みながら、私はこのまま史也を待つことに決めた。


 考えてみれば当たり前のことなのだが、似顔絵を描く史也の傍らにいるうちに、私は顔には大人型と子供型があることを知った。大人型の特徴は、面長、鼻が長い、鼻と口が離れている。顎が長い、顎は小さいが目が上の方にあるなどが挙げられる。それに対して子供型は顔のパーツが下の方に集まっている、額が広い、鼻と唇の位置が近い、顎が短い、目の位置が真ん中辺りといった具合だ。

この日、史也の視線を恥ずかしそうに受け止めていた少女は期待に満ちた表情でそのときを待っていた。「今日、あたしの6歳のお誕生日なの」と少女は言った。史也は「それじゃ特別バージョンで描いてあげるね」と言った。彼の言葉に少女はそっと微笑んだ。後ろの母親も嬉しそうだった。

そしていつものように光と影を存分に操った後で、史也は画用紙の右隅に「ハッピーバースデー」と書き込んだ。

「はい、どうぞ。お誕生日、おめでとう」

少女は出来たばかりの絵を小さな手のひらでそっと受け取った。

「ありがとう。バイバイ」

 小さな後姿が弾むように揺れながら遠ざかった。そっと清々しい風が吹いた。

路上での似顔絵描きは細々とながらも続けていた。私としては続けていれば少しずつ人が増え始め、その微かな動きが誰かの目に留まり、雑誌などの取材などで一気に評判を呼ぶといったかなり都合の良すぎる前向きな青写真を描いていた。しかし物事はそう簡単には進まない。先ほどの少女を含めてここ1ヶ月で成果は5人。とても芳しいとは言えない。主に大通公園で行い、人通りはそれなりにあるものの足を止めてくれる人はほとんどいない。ダンボール紙に書かれた『あなたの今を描かせてください』の文字もどことなく哀しげだ。

「ねえマスター。史也って余り欲がないのかな」

 あるときD12で私は訊いたことがある。目の前にはいつものカフェオレ。マスターは洗ったカップを拭きながら私の話を聞いていた。

「どうして?」

「だって、全然周りとかに宣伝しないし」

「なるほど」

「この間描いた女の子だってあたしが声をかけたんだよ」

「凄いじゃない」

「でもさ、本来はそれも史也がすることでしょう?」

「・・・」

「あれじゃ家で描いてた方がいいって。時間の無駄じゃないかな」

「手厳しいね、千紗ちゃんは」

 そう言われると小さなため息をこぼすしかない。

 そのまましばらくの沈黙。史也が来る気配はまだない。私はガラス越しに外の様子をぼんやりと眺めていた。サラリーマンや学生、愛犬と散歩中の人などがこちらを伺うようにして通り過ぎる。その中には興味深そうにしていたり、立ち止まる人もいなくもないのだが、結局、その間一度もドアが開くことはなかった。

店内にはマスターと私だけ。漂うコーヒーの香り。水蒸気が噴き出るたびにケトルの蓋がカタカタと鳴り、それが却って静寂を際立たせていた。

「客、来ないだろ」

「え?」

「客。今日は千沙ちゃんで4人目だ」

「そうなの?・・・大丈夫?」

「大丈夫なわけないだろう。火の車だよ」

 マスターが小さく微笑む。

「でも俺はさ、コーヒーが本当に好きな人に飲んでもらいたくてこの店を始めたから。じっくりと味わって、ここでの時間を大切にしてくれる人のためにコーヒーを淹れる。それって最高だろ?だから無理に客を呼んで、それほど飲みたくもないコーヒーを出して、とっとと帰すみたいな店はやりたくない。・・・まあ半分以上は強がりだけどな」

「・・・」

「奴も、そう思ってるんじゃないか?」

 マスターの言葉が心の中で繰り返された。もし史也も同じ思いで似顔絵を描いているのなら、私は単に彼の邪魔をしていることになるのだろうか。自分なりに彼の活動に貢献しているつもりでいたのだが、それは彼にしてみれば無理やり客を呼び、描きたくもない似顔絵を積み重ねている行為に過ぎなかったのか。何よりも、そう思っているのなら何故彼は言ってくれないのか。肝心な部分を理解できずに浅はかな言動を続けていたのかと思うと哀しくなる。手にしたままのカップをそっと戻した。カチャリという音がやけに耳に響いた。

「千沙ちゃん?」

「え?」

「気にしてるのか?俺が言ったこと」

「・・・」

 私が何も言えずにいると、マスターは大仰な笑顔を向けた。

「優しいなあ、千沙ちゃんは」

「は?」

「いや俺さ、どっちかと言うと奴が千沙ちゃんに惚れてるのかと思ってたけど、案外違うんだよなあ」

「・・・」

 私は恥ずかしくなり俯いてしまった。周りからも言われることなのだ。私が史也のことで一生懸命になるのは意外らしい。真美子によれば、私の顔立ちはどちらかというと冷たい印象を与えるらしく、それが男との付き合い方にも出ていると思われるとのこと。彼女自身はそう思ってはいないと一応言っていたが、そのような話があるということ事態、私にとっては大きな驚きだった。

「別に・・・、あたしは正直に史也と向き合っているだけだし」

「そりゃそうだ。悪いのは奴だよ」

「え?」

「あの馬鹿。そもそも練習のために始めたのに、客を選んでどうするんだ。千沙ちゃんをもっと見習ってガンガン行けよな。・・・よし、俺から言ってやるから」

 少しおどけた口調で話すマスターが可笑しくて、私はつられるように「お願いします」と言った。

 日差しが随分と傾き出した頃、ようやく史也が『D12』に現れた。学生実験の授業が長引いてしまったらしい。ここまで走ってきたのだろう、少しだけ息を弾ませていた。

「ゴメン」

「ううん、大丈夫。ここだと退屈しないから」

 先ほど抱えていた小さな不満もいつの間にか氷解するが如く消え去っていた。この気ままさに我ながら呆れ気味だ。

「マスター、コーヒーください」

 史也が私の隣に座りながら言った。マスターはそれには答えず、水のはいったグラスをやや乱暴に置きながら、

「お前、生意気に強がってるんじゃないぞ」

 と脅すように言った。マスターの風貌で凄まれた史也は正に蛇に睨まれた蛙だ。

「・・・」

 面食らって言葉を失っている史也に畳み掛けるようにマスターのお説教が始まった。何のことか解らないまま話を聞いている彼を横で感じながら、私は笑ってしまうのを堪えるために、もうすっかり温くなったカフェオレを一口飲んだ。

 (続く)