cafe-bar DECEMBER 12

『デフォルメ』第1話       『Dな気分』トップページへ


射抜くような視線が顔の輪郭をゆっくりとなぞり、それはやがて耳や頬、鼻筋、目元を通って唇へと移った。視線の発信源は目の前にいる似顔絵書きの男。彼が指先を動かすたびに鉛筆の先が滑らかに滑り、まるで小川のせせらぎのような流れを生み出した。私は奥歯に軽く力を込め、表情や姿勢を出来るだけ変えないよう注意する。微かな起伏までも見逃さんとするその流れに身体がほんのりと熱を帯びる。それは例えるなら異性に抱かれる前のまだ控えめな、それでいて期待に満ち溢れた高揚に似ていた。

「こんなところでどうでしょう」

 やがて穏やかな笑みを浮かべながら、彼が画板を反転させる。そこには描かれたばかりの私の顔があった。

「素敵ね」

「ありがとうございます。・・・ ・・・お名前は?」

「・・・ ・・・千紗で」

「わかりました。・・・ ・・・千紗さん、どうぞ」

「ありがとう」

「こちらには観光ですか?」

「いいえ」

「地元の方の似顔絵を書くなんて珍しいですよ」

「そう。・・・ ・・・お幾ら?」

「八百円になります」

 お金を払い、赤いリボンで丸めた画用紙を受け取った。

「ありがとうございました。またどうぞ」

 その言葉に軽い会釈で応え、その場を離れる。

 すぐに帰宅する気にもならず、駅前通を大通公園に向かってゆっくりと歩いた。街のざわめきが陽炎のようにゆらゆらと揺れ、あちこちから現れては消える人の流れが無造作に交錯していた。その様子はまるで淡水と海水が入り混じる河口付近のように忙しない。通常では共存することのない川と海を生息地とする生物が顔を合わすというその領域。人間が行き来しているこの場所も同じようなものだ。知らない者同士が様々な想いを抱きながら、各々の目的地へと向かっているのだろう。

それにしても、今日も暑かった。これで札幌は六日連続の真夏日だそうだ。本州ではさほど珍しくないこの状況も、北海道の気候を考えると記録的だ。夕方近くになってようやく日差しは柔らかさを増してきたものの、日中の名残が行き場を失ったかのように、あちこちで身を丸くして佇んでいた。明日も続く熱気の予感を小脇に抱え居心地が悪そうにしているその姿は、このままじっと夜が来るのを待っているように見えた。

大通公園のベンチに座り、貰ったばかりの似顔絵をもう一度見た。それは幾重にも重なった線で濃淡をつけ、平面の中に微妙な起伏を表現していた。ギリシャ彫刻のような無機質さと情熱が入り混じった精悍な印象を与えた。口元が少し大きめに描かれたその似顔絵は確かに私によく似ている。

 ・・・ ・・・変わってないのね。

私は立ち上がり、ベンチ横の目立たない場所に設置されているゴミ箱に似顔絵を捨てた。そして大きく息を吐き、先程よりも幾分流れが速くなった人の流れに身を任せた。飲み込まれないように歩調を合わせながら地下鉄の入り口に向かう。


 夫が出張先から帰宅していた。私はまず玄関に無造作に脱ぎ捨てられた靴をそろえた。私が何度注意しても夫は靴をそろえてくれない。それとテレビの音を必要以上に大きくすることも。

「おかえり」

 夫はソファに座ったまま、屈託のない笑顔で私を出迎える。彼の前には大好物のスナック菓子と缶ビール。手にしているのは二本目だ。

「ごめんね、遅くなっちゃって」

「ああ、別にいいよ。こっちも予定よりも早く帰ってこられたから」

「すぐに夕飯の支度するから。何がいい?」

「いらない。外で済ませてきた」

「・・・ ・・・そう」

 私もそれほど空腹ではなかったので、それを聞いて正直ほっとした。最近どうも食欲がない。夏バテなのだろうか、食事という行為がどことなく面倒で、一人のときなどはついタイミングを逃してしまう。そのことを話すと夫はいつも不思議そうな顔をする。まるで自らが生物であり続けることを放棄したようだと。

「また行ってたの?あの似顔絵描きのとこ」

 寝室で着替えていると、リビングから夫が聞いてきた。

「うん」

「好きだなあ、君も。どうせ通ったところで、顔も覚えてもらえないんだろ?」

「・・・ ・・・うん」

 その後も夫は何か言っていたが、テレビの音が大きすぎて聞き取れなかった。

 着替えが済んでも直ぐにリビングに行く気にはなれなかったので、そのままベッドに腰掛けた。スプリングの弾力が思いのほか心地良く、身体を上下に揺らす一人遊びに興じる。しかしすぐに飽き、私は大きくため息をついた。何かを吐き出したい気分だったのだが、そうする対象の正体も、実際に吐き出されたのかどうかも解らない。要は無目的で達成感の欠如した行為に過ぎない。


デフォルメって言うんだ。

本人の特徴を強調するために、対象となる部分を大げさに書く技法のことだよ。


 ・・・ ・・・史也。

 唇から思わず洩れるその名前が、寝室の空気に溶けて消える。

 確かにそうだ。あの似顔絵描きは、ほんの短い時間しか人の顔を覚えていられない。例え毎日そこへ通ったとしても、彼は初めて会ったような顔で迎え入れ、画用紙と私を交互に眺めながら滑らかに鉛筆を走らせるだろう。そして完成した似顔絵を渡しながらこう言うのだ。


「ありがとうございます。・・・ ・・・観光客の方ですか?」


 今日もこの前も、そしてその前も彼は私にそう言った。

 私も初めて描いてもらうような面持ちで絵を褒める。知っているのに金額を聞く。赤いリボンを使って画用紙を丸める。買った絵は帰宅途中で捨てる。時には大通公園で、時には近くのコンビニで・・・ ・・・。意味があるのかどうか判然としないままにそんなことを何度も繰り返していた。

 夫が呼んでいる。何かビールのつまみにでもなるものが欲しいのだろう。私は努めて明るく返事をし、できるだけ軽い足取りで寝室を出た。          (続く)