cafe-bar DECEMBER 12

『デフォルメ』第6話            『Dな気分』トップページへ



 私はどうしたらいいのか解らず、次の言葉を必死に探していた。典子さんはただ微笑んでいた。

「ほら見てください。妻の機嫌がこれほどいいのは久しぶりなんですよ」

「・・・ ・・・」

「やっぱり来て正解だった。実は医者には負担が大きいからと止められていたんですが、この街が、札幌が妻に微笑を戻してくれました。何と言っても、ここから私たち夫婦の日々が始まったんですから」

 言葉の一つひとつが私の心に染みる。その微かな刺激に涙がこぼれそうになった。

 二人がこれまでどんな人生を歩んできたのか私は知らない。穏やかな時期、苦しい時期、その全てを乗り越えてここにいるのだろう。いつも典子さんの頭を優しく撫でる孝彦さんの指先に、長い時間をかけて培った二人の絆を垣間見えた。

「・・・いい絵だ」

 孝彦さんが改めて似顔絵を眺めている。

「私の妻を素敵に描いてくださって、ありがとうございます」

「いいえ。こちらこそ」

「本当に代金は・・・」

「いいです。僕の初めてのモデルになって頂いただけで」

「解りました」

「あ、これを・・・」

 史也はスケッチブックから典子さんの似顔絵を切り離し、それを赤いリボンで丸めた。

「はい、どうぞ」

 受け取った典子さんが史也を見つめる。半開きの口元によだれがこぼれそうだった。孝彦さんが手にしたハンカチでそっと拭った。

「それじゃ、私たちはこれで」

「これからどちらに?」

「温泉にでも浸かりながらのんびりしますよ。・・・さすがにちょっと疲れた」

 孝彦さんがそっと促した。典子さんはおぼつかない様子だったが、孝彦さんにしがみつくような格好でゆっくりと立ち上がった。時折、甘えるような声を出した。

「札幌を経つとき、また寄らせていただきます。今日はありがとう」

 そんな言葉を残して、妹尾夫妻は雑踏の中に溶け込んだ。私たちは二人が見えなくなるまで見送っていた。典子さんが手にした似顔絵を丸めた赤いリボンがいつまでも脳裏に焼きついていた。

「ごめんね」

「何が?」

「変なこと言って」

「ああ。大丈夫だよ。あの人が言ってたこと、俺は本心だと思う」

「史也は気付いてたの?典子さんがそういう状態だってこと」

「・・・」

 その質問に彼は答えなかったので、それ以上聞くのを止めた。

 でも、彼はどことなく感じていたのだと思う。

 何故なら、史也の描いた典子さんの似顔絵は本人よりもいきいきとしていたから。

 典子さんに寄せる彼の眼差しが普段よりも優しげだったから。

「あのご夫婦、もう一度来てくれるといいね」

「うん」

 それから私たちは次のお客さんを待った。『あなたの今を描かせてください』の看板は先程よりも少し前に出した。しかしその日は史也が似顔絵を描くことはなかった。

 いつの間にかテレビ塔の影が随分と長く伸びていた。日差しの色が徐々に変わり始めている。私たちは橙色の光を浴びながら帰り支度をした。

 ちょっと「D12」に寄っていく?

 この程度の成果で?

 何言ってるの。一枚描いたんだから。マスターに報告しなきゃ。

 ・・・解った。行こう。

 そんな会話を交わしながら、私たちはそっと手を繋いだ。

 

 バスローブ姿のまま洗ったばかりの髪に触れているのが好きだ。バスタオルで余分な水分をふき取り、ドライヤーで乾かす。しっとりとした感触が徐々に滑らかになり、やがて指の隙間を潜り抜けていく。その過程はうぶだった少女が成熟した大人へと変化していくようでどことなく官能的と言えなくもない。

夜の11時を少し過ぎた辺り。夫はまだ帰って来ない。今夜も遅くなるのだろう。一人で簡単な食事を済ませシャワーを浴びる。残った夫の分はラップをかけて皿ごと冷蔵庫に入れた。これは明日の朝にまた出せばいい。それまでに帰ってきていればの話だけれども。

 夫に他の女性の存在を確信したのはここ数週間のことだ。

 物的証拠があったわけではない。彼の携帯電話は見ないし、不審な電話がかかってきたこともない。泊まりの仕事や出張は元々多かったし、身体を求めてこなくなってずいぶん経つので、もうそのことでどうこう言う気もない。

でも私には解る。あの人は浮気をしている。

強いて根拠を挙げるとするなら、彼が玄関で靴をそろえるようになったこと。それまではお互い相容れない方向に脱ぎ捨てられた靴をきちんと戻すのは私の役目だった。結婚当初はそんな夫のだらしなさを憂い、面倒なだけだったこの役目もやがて慣れたのか何とも思わなくなっていた。こうして人は何事も日常生活のラインに乗せると感情の起伏が小さくなることを知るのだ。だから非日常に憧れたり恐れたりするということも。

要するに私の日常の一端が崩れたのだ。ラインから降りて見えたのは、夫の遥かに大きな非日常だった。それは毒々しいまでの色彩で私の網膜を侵した。

「ま、それはそれでいいんだけど」

 一人呟く。本心なのか強がっているのか私自身もよく解っていない。否、解ろうとしていないというのが正しいかもしれない。それでいいとも思うのだ。いつもなら必要以上に音量の大きなテレビが点いていないリビングで、今夜は一人静かに過ごす贅沢さを味わおう。それはぬるま湯に長い時間浸っているような緩やかな時の流れだった。

私はその中を泳ぐためにそっとバスローブを脱いだ。まだ篭ったように熱を帯びている身体の形を確かめるようにゆっくりとなぞる。柔らかく隆起した胸や湾曲した腰、大腿からふくらはぎにかけて、更に繊細な部分などは出来るだけさりげなく。指先が微かに揺れるたびに私の奥底の感情が上気していく。初めは控えめだった動きが徐々に大きくなる。そのたびに込み上げるうねりに身を任せながら、私はこのまま一日を終えてしまおうと思った。

(続く)