cafe-bar DECEMBER 12

『デフォルメ』第7話            『Dな気分』トップページへ


 諸橋真美子から連絡があったのは数日後のことだった。

「今度の土曜日?・・・いいけど。・・・それじゃ、そのときに」

 贅肉をそぎ落としたような必要最低限の会話を交わして電話を切った。長年の友人に会うのは楽しみなようでいて、どこか慣れ親しんだ者同士だけが感じ合える面倒さが入り混じる。私と彼女の距離感を推し量るのにちょうどよい。

 最近は不安定な天気が続いている。今は前日から降り続いていた雨は止み、適度に水分を吸い込んだ空気がより一層透明度を増していた。待ち合わせたのは円山公園の近くにあるカフェ。初めて訪れたのだが、山小屋を連想させる三角屋根の店内の雰囲気が好ましかった。

温かいカフェオレを飲みながら真美子を待つ。大きな窓からはジョギングをしている老人や、サッカーボールを蹴っている父子の姿が見えた。木々の葉は盛夏を乗り切った疲労からか、気のせいか緑が幾分くたびれている。

 もう秋なんだ・・・・。窓からの景色もこれから坂道を転がるように変化していくだろう。雪が積もる頃、もう一度ここに来ようと思った。

真美子は10分ほど遅れてやって来た。

「ごめん。慌てて出てきたんだけど」

「いつものことじゃない。でもいいの?時間にルーズな先生は信用されないよ」

「大丈夫。仕事とプライベートはきっちり区別してるから。でもさ・・・・」

 そう言いながら私の向かいに座った真美子は、いきなり自分のことを喋り出した。その大半が仕事の愚痴だ。子供たちが言うことを聞かないとか、親のクレーム対応が面倒だとか、やる気のない同僚のせいで教材も用意できないとか、そのせいでまた2キロも太っただとか・・・。それにしても小学校の先生とは大変なのだなと思う。大学の頃、泣き言一つ言わずに教員採用試験の受験勉強をしていた彼女が、会うたびに「辞めたい」とか、「鬱っぽい」などとこぼしている。私はそれに対して適切な助言をすることはない。正直、話だってまともには聞いていない。彼女も日頃から蓄積した鬱憤を発散できればいいのだから、適当に相槌を打てば問題ないはずだ。

「・・・それで、どうなの?」

「え?」

 いつものように真美子からの一方通行なやり取りだったはずが急に変化があり、私は思わずとぼけた声を出した。

「やっぱり、聞いてなかったんでしょ」

「あ・・・、ごめん」

「まあ、いいけど」

「それで、何?」

 一応は聞くが、何のことかは大体見当がつく。

「高須君のこと。この間、雑誌に出てたよね」

「うん。・・・見た」

「まだ行ってるの?」

「うん」

「彼、何て?」

「・・・何も」

「何もって?」

「言葉の通り。何も思い出さない。あたしのことも」

「そう。一年前だったよね、高須君を見つけたのは」

「・・・うん」

「1年経っても何も進展なしか。・・・ねえ、千紗」

「え?」

「あんた、この先どうなることを望んでいるの?」

「・・・」

 真美子の思いがけない問いかけに、適切な答えを見出せないでいる。確かにこの1年、私は毎日のように史也に会いに行き、似顔絵を描いてもらうのを繰り返していた。それ以上でもそれ以下でもなかった。この状況を安定と呼べばいいのか、それとも停滞とでも言うべきなのか。否、どちらも違うだろう。

「余り深入りしないほうがいいんじゃない?」

 穏やかな口調で真美子が言う。

「もう忘れなよ。あのときのことは。あんたが悪いわけじゃないんだからさ」

「・・・でも」

私も真美子もそれ以上言葉が続かず、静かな沈黙だけが続いた。そういえば、10年ぶりに高須史也を見かけたのも、こうして真美子と会った帰りのことだった。あれからも休むことなく時間は流れている。さらさらと静かな音を立てて流れている。ここでその流れを止めてしまったら私はどうなるのだろう。真美子の言う通り、忘れることが出来るのだろうか。史也と過ごした日々を。史也を失った日々を。そして、余りにも一方的な再会の1年を・・・。

「千紗、ちょっと行ってみる?」

「どこへ?」

「高須君のところ。今日はまだなんでしょ?」

「何言ってるのよ。深入りするなって言ったくせに」

「まあ、そうだけどね。・・・じゃ、行くよ」

 そう言うと、真美子は伝票を手にしてそそくさと立ち上がった。

「ちょっと真美子、待ってよ」

 私は慌てて彼女の後をつける。カフェの外へ出ると西の空が曇っていた。夜になってまた雨が降るかもしれないと思った。

狸小路商店街は相変わらずパチンコ店や八百屋、ゲームセンター、そして古びたビリヤード場がアンバランスに建ち並び、雑多な商店街の姿を見せてくれる。私が高校生の頃は映画館などもたくさんあったのだが、時代の波に飲み込まれて今はわずか。上映中の作品看板などで賑やかだったあの頃の記憶とどうしても比較してしまい、現実がやや寂しげに映る。

「ねえ真美子、本当に行くの?」

「うん。・・・一人じゃないと嫌?」

「そういうことじゃなくて」

「あんたは好きにしていいよ。あたしは遠巻きに見ているだけだから」

「・・・」

私たちは歩を西に進めて7丁目まで来た。この辺りはスープカレーの店や古着屋などがひしめいている界隈だ。どことなくエスニックな空気が立ち込めている。

古びた昔ながらの玩具屋の近くに来ると、私は歩調がどことなく緩慢になり、視線は忙しなくなった。ダンボール紙に『あなたの今を描かせてください』と記された看板とは言いがたい粗末な案内が目に入る。国内外の有名人の似顔絵が飾られている3つの小さなイーゼルに囲まれるように史也が座っていた。スケッチブックに鉛筆を滑らせながら、観光客らしき女性二人組と談笑している。そしてその周りでは数人が微妙に距離を保ちながら様子を伺っていた。いつもなら道行く人々は彼に目もくれずに素通りしていくのに、今日は立ち止まって史也を指差しながらくすくす笑ったり、中には携帯電話でこっそりと写真を撮っている者までいた。

「あれが雑誌効果って言うの?いいんだか悪いんだか」

 真美子が呆れた口調で言った。

「記憶障害のある似顔絵画家だもんね。とりあえず見とこうかって気になる奴も出てくるよね」

私は何も答えられずにいる。ただ目の前の光景が好ましいものとは思えなかった。それが私にとってなのか彼にとってなのかは解らなかったけれど、とにかく気持ちがささくれたような状態の悪い感覚だった。

 史也本人は気にならないのか無視しているのか、目の前の客の似顔絵を完成させた。

「・・・はい、出来ました。・・・ほら、いい感じです。これは今までで1位か2位を争う出来ですよ。・・・いや、本当に」

 三人の笑い声が商店街のアーケードの屋根に軽く響いた。

自分の似顔絵を大事そうに持った客が手を振ってその場を離れた。嬉しそうな後姿がその満足度を明確に示していた。そして微笑んで見送る彼の視線は秋の日差しに似てとても柔らかだった。

きっとあの客のことも彼の記憶には残らない。徐々に薄れていくのか、それとも一瞬にして消え去るのかは解らないが、再び彼の許を訪れても、初めて会うような対応をするだろう。自分が忘れていることさえ気が付かずに。

不意に涙がこぼれた。私に気付いてくれない寂しさか、周りの無神経な振る舞いに対してか、それとも先ほどの客に対するいわれのない同情か。恐らくどれも正しくてどれも間違っている。とにかく私は哀しかった。一度流れた涙は次の涙を誘発し、自分では止められなくなっていた。

私はその場を離れた。真美子が何か言ったような気がしたが無視した。

早足で狸小路を抜け、すすきの方面に向かって歩く。たくさんの人とすれ違い、たくさんの人を追い抜いた。そして電車通り目前で赤いリボンと丸まった画用紙を見つけた。

「・・・あの」

 自分でも驚くほどためらいのない声が出た。


 (続く)