cafe-bar DECEMBER 12

『デフォルメ』第8話            『Dな気分』トップページへ


 振り返ったのは背丈や髪の長さなど、容姿こそ異なるが似たような雰囲気を持った女性二人組。間違いなく先ほど史也に似顔絵を描いてもらった面々だ。一様に驚きの表情を浮かべている。私は軽く息を吸い込み、「先ほどの絵、見せてください」と言った。先ほどの涙は既に乾いていた。

「どなたですか?」

「ちょっとした知り合いです」

「知り合い?」

「そう。・・・お願い」

 背の高い彼女がそっと画用紙を差し出した。その仕草から驚きが不審へと変化しているのが手に取るように解る。

「ありがとう」

 私は出来るだけ穏やかに礼を言うと、丸まった画用紙を開いた。見慣れた線描がそこにあった。すっきりとした輪郭になだらかにウェーブのかかった髪、鼻筋の通った顔立ちなど、幾重にも重ねた線の濃淡で目の前の彼女を表現していた。頬の辺りがすすけたように薄く汚れている。彼の手の動きで鉛筆の粉が広がったのだろう。しかしそれも似顔絵の立体感を演出していた。デフォルメで本人以上に上がった目じりは凛とした印象を、そして微笑みの視線をほんの少し右上にずらすことで可愛らしさを感じさせる似顔絵だった。

「彼のこと・・・、あの似顔絵描きのこと、どうやって知ったの?」

「どうやってって、たまたま見かけたから。・・・ねえ?」

 もう一人の背が低く髪の短い彼女が無言でうなずいた。

「そうなんだ」

 私は似顔絵を彼女に戻す。

「もう・・・、来ないで」

「え?」

「もう彼に似顔絵を描いてもらわないで。彼のことは誰にも話さないで。・・・お願いします」

 得体の知れない沈黙が私たちを包む。もはや目の前の二人は不信感を隠そうともしなかった。ひったくるように私から似顔絵を受け取ると、そそくさとその場を立ち去った。

市電独特の警笛が近くで聞こえた。どこかで車のクラクションがけたたましく鳴った。あらゆる方向から人が流れ、雑踏は街の遠近感を希薄にする。自分の足の裏から力が抜けていくように、私は自分の立ち位置を見失っていた。

頬に雫が当たる。一滴、また一滴・・・。その感覚は徐々に狭まっていき、路面にその跡が目立ち始める。雨か。降るなら夜になってからだと思っていたのに・・・。

 いつの間にか後ろには真美子がいた。私の左肩をそっと叩く。その刺激の暖かさに思わず感情が揺れ、再び涙が溢れた。

「馬鹿だね、あんたも」

「本当にね。何やってんだろう、あたし・・・」

 雨脚は一層強まり、涙を隠すには好都合だ。灰色の分厚い雲が空一面を覆っている。きっとこのまま一日が終わる。

「それで、どうするの?」

 真美子が問う。私は無言で首を横に振る。勿論、このまま帰ろうと思った。今日はこれ以上史也の姿を見たくなかったから。

・・・違う。この姿を、この有様を彼に見られたくなかったから。


 もう少しで明日になる頃になっても雨は止みそうにない。窓ガラスを叩く音が灯りを消したリビングに絶え間なく響いている。それを気持ちの片隅で聞きながら、私はこの深く沈んだ夜をどう過ごそうかと一人思案していた。

ついさっきまで真美子がいてくれた。明日は学校行事の打ち合わせのために朝から休日出勤らしい。帰り際、彼女は「夜遅くまで付き合わせて。寝坊したらあんたのせいだからね」と憎まれ口を叩いて出て行った。そんな気遣いが今夜はやけにありがたかった。

真美子と入れ違いになる形で夫からメールが来た。急患で今夜も帰れないとのこと。そんなの、どうせ嘘に決まっている。週末になるたびに急患や論文の締め切りなど仕事が立て込むなんてどう考えても不自然だ。私は無機質な夫の嘘を削除した。慣れた行動とはいえ、やはり釈然としない気持ちが小さな染みとなって浮き出てくる。

明日は特に予定があるわけでもなく、眠気もなかなか訪れない。ビールでも飲もう。灯りを点けると突然の明るさに目が対応できず、瞼の奥がじんわりと痛んだ。


要するにロドプシンが過剰分解した結果だな。

ロドプシンは網膜にある物質で、光に敏感なんだ・・・。


私は意識的に強く目をつぶり、染み込んだ鈍痛が過ぎるのを待った。しばらくして光に馴染んだ両目が本来の役割を取り戻す。そこにあるのは見慣れたリビングの様子だった。久しぶりに部屋の模様替えでもしてみようか。テーブルの位置を少しだけずらしたり、ベッドカバーやカーテンの色を変えたり。夫は部屋の中が変化するのを嫌うが、今更それを気にするまでもないだろう。とりあえず明日はホームセンターに行こう。変化を遂げた室内をイメージして、私はそっとほくそ笑む。

途中になっている小説を読む気にもなれず、私はテーブルの上にある日中に何度も目を通した最新の求人誌を手にした。ページをめくるたびに目に入るのは、何度も見た職種ばかりだ。・・・特になし。誰に言うでもなく呟く。

久しぶりに働きたいと漠然と思うようになったのはここ半年ぐらいのことだ。新しい仕事を探そうと思う自分と、夫の給料に甘えて今の生活を続けようと思う自分。それらが交互に現れて、しばらくは両者の鍔迫り合いが続く。そして最終的には多少の情けなさと共に後者が勝つ。

夫は結婚したら仕事を辞めて家庭に入って欲しいと言った。私としては続けたかったのだが、医者である彼の実家の意向もあり、また最初から相手と波風を立てるのは如何なものかという自分の思惑もあり、勤めていた食品会社を退職した。それから三年。経済的には恵まれた生活だ。周りからも羨ましがられることもたまにある。しかし人は日々に慣れ、知らないうちに変化を求める。平坦には起伏を、安定には刺激を。

だとしたら、私が求めている変化はどこにあるのか。

定期的に積み重なっていく求人誌の束が薄ぼんやりとそんな気分にさせた。


ロドプシンって何だろう。

前の日に聞いた史也の言葉が気になって仕方がない。

十一時を過ぎて、学食は徐々に混み合ってきた。人気のある定食や麺類などのブースに早くも行列ができ、アラカルトメニューでは好みの一品を求めて人が緩やかに流れていた。テーブルの上には自分の席を確保するための鞄があちこちに置いてある。一見すると無用心だが、盗難といった被害のうわさは聞いたことがない。学生間で交わされた暗黙の取り決めというやつだ。

二時限目が休講だった私は、そんな慌しさの中で史也を待っていた。彼が理学部で私が経済学部なので同じ授業を受けることはほとんどない。大抵はD12か学食での待ち合わせになる。学生たちの会話が反響してより一層大きく聞こえるのをやり過ごしながら、私はテーブルの上に無造作に置かれているサークル勧誘等のチラシを手にした。学生部からは一応その手のチラシは好き勝手に置かないようにと通告されているのだが、それを律儀に守っているものなどいない。膨大な量になる無駄な紙の量に辟易しないこともないが、なければないで物足りない。これも学内ならではの風景なのだ。

出入り口の人通りが心なしか増してきた。もうそろそろ講義が終わる時間だ。私は目をつぶった。そして集中することで大勢の人の中から史也を見つけるのだ。見つけるというよりは感じるといったほうが正しいかもしれない。彼だけが発する波長を私だけが感じる。それは何と素晴らしいことだろう。

・・・違う。

・・・これも違う。

無数に行き交う波長から必要なものだけを探していく。

・・・全然違う。

・・・まるで違う。


・・・あ。


私はそっと目を開けた。少々ぼやけた視線の先。ちょうど史也が重たい観音開きの扉を開けて学食に入ってくるのが見えた。



 (続く)