cafe-bar DECEMBER 12

『デフォルメ』第10話            『Dな気分』トップページへ



 焼きとうもろこしの香ばしい匂いがした。醤油を基本とした特製のたれが焦げる香りは大通公園の名物でもある。7月になって冷凍物から生とうもろこしに変わる頃、札幌に夏がやって来る。もはや人類の滅亡を謳っているのは一部のマスコミや胡散臭いオカルト研究者だけで、私たちの周りでは挨拶代わりの話題にさえならない。そういえば冥王星と海王星の順番の入れ替えはいつ頃だったろう。そんなものなのだ。溺れるくらい多種多様にわたる情報が氾濫していて、多くの人々の興味を長く引きつける話題など探すほうが難しい。そうして人間の頭の中は絶えずリセットされていて、必要なものと不必要なものを無意識に選別している。それがいつも正しく機能しているかどうかは別として。

 要は人間とは記憶と忘却のはざまを行き来する生き物なのだ。

 どんな記憶でも時間の経過とともに色褪せ、風化していく。その結果、歪曲されて残るか、或いは新しい記憶に押し出される。ふとした瞬間に思い出すこともあるので無に帰すのとは違うのだろうが、やがては忘れたことさえも忘れてしまう。今までに私はどのくらいの出来事を忘れてきたのだろうと考えるたびに、見当もつかない状況に却って愕然とする。


 史也と私は相変わらず左右に流れる人の姿を多少見上げるようにして眺めていた。

 初夏と呼ぶに相応しい気候だった。本州ではまだ梅雨らしいが、この時期の北海道は最も爽やかな季節である。ここ数日で旅の装いの方が増えてきていることが何よりの証拠だと私は思う。

 木陰のベンチに座ったカップルが焼きとうもろこしを食べていた。年齢は恐らく私とほぼ同世代。漏れ聞こえてくる言葉のイントネーションから判断するに、関西方面からの観光客だ。

 二人はたれでべとついた手や歯の間に挟まる感じに困っている様子だった。その姿に思わず笑みがこぼれる。焼きとうもろこしは粒を芯からきれいに剥がして食べることは難しい。上品さとは無縁にかぶりつく。手は最後に近くの水飲み場で洗えばいい。これが正しい食べ方だ。

 何の気なしに様子を伺っていると女性と目が合った。その瞬間、「食べたら似顔絵を如何ですか?」と史也の声が私の頭上を通り過ぎた。

「似顔絵?」

「はい。旅の思い出に。・・・どうです?」

「面白そうやな。あんた、描いてもらったら?」

「そうか?・・・ナンボ?」

「お金は結構です」

「マジで。それならお願いしようかな」

 そう言って男性が史也の前に座った。

 最近、史也は道行く人に声をかけるようになった。少し前までは向こうから来るのを待つのみ。当然ながらそんな人は皆無に等しく、ほとんどお茶挽きのような時間を過ごし、やがて痺れを切らした私が彼を差し置いて声をかけるという状況だった。それが先日のマスターのお説教が効いたのか、ここ数日の彼の変化は私にとってはちょっとした驚きだ。勿論、だからと言って描かせてくれる人が劇的に増えるわけではない。それでも何となく活気立つのは事実だ。同時に自分の役目が削られた気分になるのは単に私の身勝手さに起因しているのだろう。

 史也は描き出す前に必ず軽い会話をする。話題は出身や職業など他愛のないもので構わないらしい。会話をすることでほんの少しでも自分の気持ちを相手に重ねたいのだそうだ。史也はそのことを「似顔絵を相手に当てる」という言葉を使った。そうすることで表面だけの似顔絵ではなく、その人の内面までも描けるような気がすると。

 既に史也は当てに入っている。旅先という要素がそうさせるのか、相手の男性も話好きのようだ。神戸から来たこと。二人とも25歳だということ。北海道は初めてだということ。一緒に来た恋人とは将来的に結婚を考えていることなどを饒舌に語ってくれた。後ろで聞いていた女性は特に「結婚」という言葉に敏感に反応し、表情を微かに緩ませた。嬉しさと気恥ずかしさが綯い交ぜになった故のことだろうが、出来るなら直接言って欲しかったのではとふと思った。

 鉛筆の先が手早く動く。徐々に出来上がっていく過程を横から眺めるたびに、私は平面の中に潜む美しい奥行きを感じることができた。

 声をかけるのもそうだが、史也の似顔絵も変化している。今までは写実的と言うのだろうか、目の前の人を出来るだけ忠実に紙面に再現していた。しかし近頃は顔の特徴をより強調した描き方になっている。最初は思い過ごしかとも考えた。しかしある日、抱かれた後のまどろみの中で交わした会話でそれが正しいことを知った。

「やっぱり?」

「そう。デフォルメって言うんだ」

「あ、聞いたことある」

「だろ?本人の特徴を強調するために、対象となる部分を大げさに書くことだよ」

「ふうん」

 デフォルメとは正確にはデフォルマシオン技法と言い、変形を意味する。書き手の感情や造形的な意図の強調などのために、自然の再現を捨てて表現するのだ。時には何らかの不自然さや不快さを感じさせるとしても意識的に変形を施すこともあるらしい。

「でもさ・・・」

 と、彼が続ける。

「ただ崩して描けばいいってものでもないよな」

「・・・うん」

「どうせデフォルメするなら目の前の形を意味あるものに変える描き方をしたい」

「・・・うん」

 心地良い眠気に彼の言葉が重なった。それは月明かりに溶けたチーズのように濃厚な味わいで胸の奥に広がった。素敵な表現だと素直に思った。後になって「すぐに寝ちゃって、全然話を聞いてなかっただろ」と言われたがそれは違う。彼が意識をも凌駕した場所に置いたのだ。だから私はいつでも思い出すことができる。彼の発した言葉も、静かながらも熱を帯びた想いも、そして私を抱いた後の少し汗ばんだ匂いも・・・。

 もうすぐ似顔絵が完成する。時間にして二十分程度。それが長いのか短いのかは解らないが、描かれる立場にしてみればどのように仕上がってくるのか気になる時間帯だろう。

「・・・はい、こんな感じでどうでしょうか」

 少しはにかんだ表情で史也がスケッチブックごと差し出した。食い入るように眺めていた二人がほとんど同時に破顔した。

「これ・・・」

「何か、恥ずかしいな」

 史也は二人が並んだ構図で描いていた。しかも男性はタキシードを、女性はウェディングドレスを纏い、お互いを見つめあいながら微笑んでいた。男性は頬の辺りをたくましく、女性は目元をはっきりさせるというデフォルメを施していたが、その中に史也らしい写実的な部分も存分に発揮されていた。何よりも紙上で二人の視線が優しく絡み、そこから光が溢れていた。

「ええな、これ」

「そやな」

 二人は何度かその言葉を繰り返した。私はお互いの中に、それが単なる絵ではなく現実に近いイメージとして刻まれているであろうことを確信していた。史也は「お幸せに」と言っただけで後は何も言わなかった。

 去り際に男性が千円札を一枚差し出した。史也はお金をもらうつもりはないと固辞したのだが、二人はそれでは気は治まらなかったらしく、払うと言って引き下がらない。

「いいんじゃない?ありがたく頂けば」

「そう?」

「うん。喜んでくれてるんだし」

 これが路上に出て初めての報酬だった。金額云々よりも二人があれほどまでに喜んでくれたことが何よりも嬉しかった。二つの背中が雑踏に隠れてしまっても、史也はその千円札をずっと握り締めていた。

「ええ仕事したんとちゃうの?史也君」

 私の適当なイントネーションに二人で思い切り笑った。道行く人々が奇異な視線を投げかけても一向に構わなかった。それを気にするよりも内から湧き出る感情のほうが余りにも強かったのだ。私たちの笑い声は大通公園の噴水の水滴とぶつかっては青い空に弾けた。

 ふと笑い声が止む。

 どちらからともなく、ほとんど同時に。

 私たちの視線は同じ場所に凝縮していた。

 噴水の向こう側。見覚えのある姿。多少歪んでいるのは水越しに見ているせいで光が屈折しているからだろう。

「・・・妹尾さん」

 史也がそっと呟いた。


 (続く)