cafe-bar DECEMBER 12

『デフォルメ』第4話            『Dな気分』トップページへ


誰もいない自分の部屋に戻る。夫が出張に出かけて二日目の夜。大きく息をつき、窓を開けた。それまで淀んでいた室内の空気が入れ替わり、一定の透明度を取り戻した。着替える気にならず、私はそのままソファに座りテレビをつけた。映っていたのは派手なだけで中身の乏しいバラエティ番組。忙しなく笑い声がこぼれてくるが、何がそう面白いのか私には理解できない。適当にリモコンをいじるもどこの局も似たようなものだ。結局、数分もしないうちにテレビを消した。途端に訪れる静寂。余韻はまだその辺をうろうろと漂っている。

 手にしていた雑誌をテーブルの上に置いた。それは札幌市内でのみ配布されているフリーペーパーで、主に小さな街の話題などを紹介しているものだ。普段この類の雑誌を手にすることはほとんどないのに・・・・。誰に答えるでもなくページを開く。


『札幌・街角トピックス。

記憶障害を持ちながらも似顔絵を描き続ける高須史也さん(31)。

いつも賑わいを見せる狸小路商店街に、週末になると現れる高須さん。観光客を中心に似顔絵を描いているのだが、実は十年ほど前の事故が原因で記憶障害を抱えており、人の顔を憶えられないのだ。それでも似顔絵を描いているときの高須さんから悲壮な雰囲気は感じられない。むしろこの瞬間に出会えたことを慈しんでいるかのようにさえ映る。取材した日はあいにくの雨だったが、それでも数人の・・・・』


ここまで目を通してからゆっくりと雑誌を閉じた。所々折れ曲がった表紙が心のささくれを表しているようだ。日中から燻り続けている頭痛。我慢できないほどではないが絶えず気になり、悪戯に集中力が削がれる。誰かが内側から小さな針で頭蓋骨を突いているようだ。中指でこめかみの辺りを軽く押しても治まらず、苛立ちだけが増幅される。

「・・・・ ・・・・」

 何かを言いかけて止めた。何を言いたかったのかは自分でも解らない。ただ言ったところで意味を成すとは思えなかった。今の私にはその類の言葉しか出てこない。だから替わりにため息をついた。身体の中の空気を全て吐き出してしまったかのような深いため息。そこに私の一日が混じっている。


 今日も似顔絵描きのところに行ってきたこと。

 今日も彼は「始めまして」と私に言ったこと。

 今日も八百円を払い、その似顔絵を捨ててきたこと。


 そんな繰り返しの出来事が大小さまざまな風船のように部屋の中に浮かんでいた。

 バカバカしいくらいに。そして哀しいくらいに。

私はやや乱暴に雑誌のそのページを破いた。自分でも意外なくらいに大きな音が出て、ため息の風船が一気に弾けて消えた。


史也と初めて路上に出たことを思い出す。

それは彼が似顔絵を習い始めて三ヶ月位してからのこと。似顔絵の師匠であるマスターに「自分の意思に関係なく、客が来たらその人のために描く。実践あるのみ。とりあえずたくさん恥をかいて来い」と言われたのだ。

最初、彼は渋っていた。まだ人前に出ることに自信がなかったのか、そもそも路上に出ること事態が想定外だったのか。ただマスターがそんな彼の心中を察するはずもなく、半ば強引に背中を押した。そのときのずんとした圧力。この瞬間に何かが始まった。

とりあえず私たちは大通公園の噴水の前に陣取った。

確か日曜日だったと思う。ライラックが咲いていたから五月の終わり頃だろうか。薄紫の小さな花弁が寄り添うように咲いていて綺麗だった。道端に落ちていた棒切れに『あなたの今を描かせてください』とマジックインキで書いたボール紙を貼り付け、これを看板の代わりとした。どう贔屓目に見てもみすぼらしさだけは満点だ。

「ねえ、どうしてここ?」

「人が多いから」

「でもさ、みんなさっさと行っちゃうよ」

「そうだね」

その日は朝から空が澄み渡り、多くの人々が行き来していた。北海道特有の遅い春の訪れに道行く人々の足取りは軽い。その分だけ心なしか誰もが足早で、右から左から次々に視界に表れてはすぐに見えなくなった。

「それにしても、マスターも無理言うよね。いきなり描いて来いって」

「まあ、あの人らしいけど」

「お客さん、来てくれるかな」

「さあ。待つしかないよな」

「どうする?幾らくらい取るの?」

「金は取れないだろ」

「そう?」

「うん。そこまでの腕じゃないし」

「そうか。・・・・そうだね」

 他愛のない会話だけが時間を埋める。私たちはライラックの木陰でいきなり開店休業状態だ。誰の目にも留まらないし、恥のかきようもない。何の変化もなく二時間ほどが過ぎた。このままじゃいけない。誰か一人でも立ち止まってもらえるよう何とかしなければならない。

「ここは、何をしてくれるところですか?」

 初老の男性が話しかけてきた。史也も私も不意打ちにあったように返事ができず、ただ座ったまま男性の顔を見上げているだけだ。何か言わなければ。せっかく足を止めてくれた人なのに。

「ほら、これです。『あなたの今を描かせてください』とあるものですから」

 男性はお粗末な看板を指差して微笑んでいる。初老といってもその立ち姿は涼やかで姿勢もよく、どことなく華のある雰囲気を醸し出していた。こげ茶色のベレー帽と所々に白いものが混じった口髭が印象的だ。春らしくも重厚さを感じさせるジャケットを着たその人は静かに返事を待っている。

「あ、あの・・・・、僕らはここで似顔絵を描いているんです」

 ようやく史也が答えた。緊張感を全身にくるんでいるような口調だった。

「ほう似顔絵。それは一枚お幾らかな?」

「お金は結構です」

「無料?またどうして」

「まだ始めたばっかりで修行中ですから」

「そうですか」

「あの・・・・、お時間がありましたら一枚如何ですか?」

 たどたどしさは否めないが、史也がその男性に似顔絵を勧めている。どうかうんと言ってくれますように。どうか史也の記念すべき第一号のお客さんになってくれますように・・・・。

 やがて男性の微笑みは更に優しげになり、ゆっくりとうなずいた。

「それじゃお願いしましょうか」

 男性は振り返ると軽く手招きをした。すると噴水の辺りに立っていた小柄な女性が導かれるようにこちらに向かって歩き出した。

「私じゃなく、妻の似顔絵をお願いします」

 何かとても貴重な瞬間を垣間見たような気がした。一生忘れずにいようと思った。

 史也が準備を始めている。私はその横でライラックの仄かな香りに包まれているような感覚を味わっていた。

(続く)