味覚や聴覚、視覚など具体的な感覚に絡めると記憶はより強いものになると言う。だから私のこのときの記憶はライラックの香りを織り込んで刻印されているのだ。この季節が来るたびに、そして甘く個性的な香りが鼻腔をくすぐるたびに私はこの場面を思い出す。喜びとほろ苦さの同居したあの場面を。十年という月日が過ぎても。
例え史也が今そばにいてくれなくても・・・・ ・・・・。
「お名前、教えていただけますか?」
「妹尾孝彦です。・・・・ ・・・・で、これが妻の典子」
孝彦さんに促されて私たちの前に座った典子さんは、子供のように邪気のない笑顔を浮かべていた。余りにも簡易すぎる椅子では居心地が悪いのではと思ったが、彼女の表情から察するにそうでもなさそうだ。
「それじゃ、よろしくお願いします」
史也はまず白いスケッチブックとモデルを交互に眺めることで、どのように画用紙の上に表現するかを思案し始めた。それはマスターにいつも言われていることであり、彼にとっての描き始めの儀式でもあった。
別に何かをするわけでもなく、ただ史也のそばにいるだけなのに、いつになく私は緊張していた。初めは彼のそれがうつったのだと思っていた。しかしそうではなかった。
研ぎ澄まされた集中力の中で、彼の瞳の色は澄んでいると同時にどこまでも深かった。
やがて鉛筆の先にまで神経を行き届かせて史也は描き始める。
静かな音を立てて滑る鉛筆の先は、典子さんの輪郭を細く、そして柔らかくなぞり、やがて優雅な曲線へと生まれ変わった。その様子はまるで最高級のシルクをなぞるように滑らかで、その美しさに思わず背筋がすっと伸びた。
「こちらへはご旅行ですか?」
「広島から来ました。札幌は三十年ぶりでね。新婚旅行以来だ」
典子さんの後ろから孝彦さんが答える。
「どうですか?この辺は変わりましたか?」
「随分と変わったねえ。街の雰囲気も何もかも。・・・・ ・・・・私たちもね」
そう言いながら、孝彦さんは典子さんの頭を優しく撫でた。典子さんはそれには応えずにただ微笑んでいる。その様子にほんの少しの違和感を覚えたが、史也は特に気にする様子もなく、「そうですか」と静かに応じていた。
鉛筆が走るたびに画用紙に命が吹き込まれていく。その間、孝彦さんがご自身の新婚旅行のことを話してくれた。
初めて乗った青函連絡船が時化に当たり、夫婦そろって船酔いしたこと、市電での移動中、窓から手稲山方向に綺麗な夕日が見えたこと、二条市場では札幌に新婚旅行は珍しいとお店からカニやホタテなどの海産物をたくさんもらったこと・・・・ ・・・・。
どれも素敵な逸話だと思った。私はまだ結婚もしていないし、そもそも結婚なんて想像の域を出ない代物だったが、孝彦さんの話は無色だった想像にほんの少しだけ彩りを添えた。その温かみのある淡い色合いの中で、私は初々しい一組の夫婦の始まりを疑似体験できたような気がした。
相変わらず忙しなく人が行き来する公園内。それでも実際に似顔絵を描いている姿こそが一番の宣伝効果なのだろう、通りすがりにこちらに視線を向ける人が多少見受けられるようになった。・・・・ ・・・・似顔絵だって。・・・・ ・・・・珍しいね。・・・・ ・・・・ねえねえ、ちょっと描いてもらいなよ。そんな会話が聞こえてくるたびに気分が高揚した。ここから小さくも新しい何かが始まっていることを強く感じていた。
史也本人は実に淡々と作業を行っていた。典子さんに視線を送り、鉛筆を走らせ、孝彦さんと会話を交わす。それらが実に均衡の取れた形で行われていた。初めて路上に出たというのに落ち着いている。ここに来るまでは余り乗り気ではない様子だったのに・・・・ ・・・・。目の前にいる彼の手際の良さと堂々とした雰囲気に私は内心驚いた。
まもなく史也は軽く息を吐き、緊張した面持ちで言った。
「・・・・ ・・・・こんな感じでどうでしょうか」
スケッチブックを持ち替えて、出来たばかりの似顔絵を妹尾夫妻に見せた。私も横から彼の記念すべき初作品を覗き込む。そこには弾けるような典子さんの笑顔があった。「・・・・ ・・・・素敵」
思わず感嘆の声が漏れた。初めて史也が路上に出たという事実と、初のお客さんを前に私の感情が大げさなまでに起伏していた。
鉛筆だけで描かれているので多少の粗さは否めないが、それでも白と黒の濃淡が際立った立体感のある似顔絵だった。目尻や口許に記された小さなしわ、左の頬にある黒子、実際よりも少しだけ大きな鼻、そしてその全てを引き立てるかのような光と影・・・・ ・・・・。それらは典子さんが孝彦さんと築いてきた人生の具現だと思った。
孝彦さんがスケッチブックを手にする。食い入るように見つめていた孝彦さんの表情が少しずつ緩んだ。
「いいですね。今の妻の表情が良く描けている。色は着けないのかい?」
「それはまだ練習中なんです。すみません」
「いやいや、ここまで描いてくれるだけでも充分ですから。・・・・ ・・・・ありがとう」
その言葉に、史也は照れたように小さく頭を下げた。
私は典子さんの様子が気になっていた。彼女はずっと微笑んでいたが、どことなく心あらずのように見受けられた。実際、似顔絵を見ているのは孝彦さんだけで、典子さんは興味がなさそうだ。
「典子さん、ご覧になられていかがですか?」
そっと聞いてみる。しかし彼女は何も答えてはくれなかった。
「あの・・・・ ・・・・、典子さん?」
「・・・・ ・・・・」
それでも彼女は何も言わない。こちらに顔を向けるだけで焦点も定まっていないようだ。典子さんの二つの瞳から発せられる視線はどこまでも平行線を辿っていて、決して交わることがなかった。
ある想いが頭に浮かんだ。
「妻は、痴呆なんです」
静かに孝彦さんが告げると、言葉に吸い込まれるように周辺から音が消えた。人通りは相変わらずだったし、噴水は勢いよく独特の弧を描いていたが、私にその音は届かなかった。思わず息を飲んだ。史也は表情を押し殺したまま黙っていた。
「・・・・ ・・・・ごめんなさい」
思わず謝っていた。どこに向かって謝ったのか自分でも解らなかったが、それでも言わずにはいられなかった。
(続く)