あの頃は携帯電話の番号が11桁になったり、トルコ西部で大きな地震があったり、海王星と冥王星の順番が元に戻ったり、人類が滅亡するという馬鹿げた噂が再燃したりと、いつもと同じようで何かと慌しい時期だった。しかしそう思えるのもある程度の時間が流れ、歴史の年表を見るように出来事を捉えているからであり、実際にその中にいると不思議なくらい日常は普通に通り過ぎていく。例えば大化の改新だって、関が原の戦いだって、薩長同盟だって全て歴史においては大事件だけれども、その当時、特に当事者ではないごく一般の人々にとっては、きっといつもと変わらない一日を過ごしていたのだと思う。ちょうど晴れた日には青空が頭上に広がっているように。
そんな1999年、私たちは札幌で大学生活を送っていた。
私の隣では高須史也が熱心に新聞を読んでいる。目を皿のようにして、一言一句逃すまいという決意を全身から発していた。多少大げさな表現だと自分でも思う。ただせっかく授業を抜け出して二人で過ごしているのにと思うと、その態度と言うか行動にちょっと納得できないでいる。
「ねえ、史也」
隣から返事はない。視線を逸らさず、時折、機械的にコーヒーカップに手を伸ばし、褐色の香ばしい液体をすするだけだ。
「・・・ ・・・もう」
ふくれっ面のまま、私はもうだいぶ温くなったカフェオレの残りを一気に飲み干した。
「千紗ちゃん、災難だな。こいつが集中モードに入ったら、誰も立ち入れないから」
マスターが苦笑いしながら言った。
「解ってます。何か、もう少しかかりそう」
「それじゃ、待っている間にお替りするかい?」
「・・・ ・・・マスターのおごり?」
「は?・・・ ・・・仕方ねえなあ。今日だけだぞ」
「ありがとうございます。いただきます」
通っている大学のすぐ近くにあるカフェ「D12」が、私たちのお気に入りの場所だ。七席のカウンターとテーブルが二脚のこじんまりとしたカフェだが、そこにくると何故かとても落ち着いた。行きつけのカフェがあるという事実が、とても小さな、それでいて決して周りにひけらかすことのない優越感を与えていたのかもしれない。暇なときは勿論、試験勉強もするなど、時にはカフェオレ一杯で何時間も過ごすことさえあった。店側にしてみれば儲けの少ない悪い客なのかもしれない。しかしそれだけ居心地の良い時間と空間は、私にとっては非常に貴重だった。
「はい、お待たせ」
出来立てのカフェオレが目の前で揺れている。私はそれを慈しむかのようにゆっくりと飲んだ。まろやかさが体中に染み渡るような優しい味がした。
「・・・ ・・・美味しい」
「俺が作ったんだから当たり前。・・・ ・・・そうだろ?」
「そうでした」
私は軽く首をすくめながらそう答えた。
相変わらず史也は新聞から目を離さない。まるで別世界に旅しているようだ。そんなに面白い記事が書いてあるのだろうか。知りたいという気持ちはあるものの、聞いたところで「別に」と返されるに決まっている。もうしばらくこの時間は続くだろう。ちょっと不満だけど、それでいてとても穏やかで落ち着く時間。立ち込めるコーヒーの香りとマスターとのありきたりな会話を味わいながら、私は彼がこちらに戻ってくるのを待つ。そしてぼんやりとあることを思い出している。
それは以前サークルの仲間で湯の川温泉に出かけたときのこと。参加人数が多かったので車を数台用意して、同乗するメンバーの組合せを要所で変更しながらの小旅行だった。少ない予算で決して贅沢とは言えなかったが、そこは学生の乗りで包括された。
帰りの道中。車を史也が運転をして助手席には私。後ろの席では真美子と孝之が身を寄せ合い、疲れきった表情で眠っていた。何が起きても目を覚まさないんじゃないかと思わせるほどの熟睡っぷりに思わず笑みがこぼれる。
私たちを乗せた車は札幌に向かって軽快に走った。夕焼けの橙色に導かれるように、周辺の木々が闇に包まれる準備を始めていた。
既に帰り道ということもあり、地図を注意深く見る必要もなく、助手席の仕事は皆無だ。地図を読み取ることが極端に苦手な私にとって、何とも気楽な立ち位置。ただ、運転を彼に任せて私まで寝てしまうのはどことなく申し訳ない気がしたので、意識の隅でくすぐられるように存在する眠気をやり過ごしながら、後ろへと流れていく景色を眺めていた。
「史也くん、大丈夫?疲れてない?」
「・・・ ・・・うん」
「ねえ、結構スピードで出るんじゃない?」
「そう?」
「うん。捕まらないでよ」
「そうだね」
真直ぐ前を向いたまま、彼が言葉少なに答えた。
史也は全体の線が細く、サークル内でもどちらかというと目立たない存在だった。私が抱く印象も、多少神経質な面があるのかもしれないという程度では非常に薄い。今回の小旅行でもそれが大きく変化することはなかった。極端に明るいわけでもなく、かといって周りの楽しい気分を削ぐほどの暗さもなく、程よい社交性を身につけた、ある意味ごく典型的な大学生といったところだろうか。
同じサークルとはいえ、それほど親しく話す間柄ではなかったので、ちょっと油断するとすぐに会話が途切れる。彼は自分から話す方ではないので、後ろの二人があの状態では私が話しかけないとずっと静寂に包まれたままだ。・・・ ・・・このまま眠ってしまいそう。何か意識を繋ぎとめる道具が必要だ。
「ラジオ、聞く?真美子が持ってきたCDはもう聞き飽きちゃったし」
「うん。でも後ろ、うるさくないかな」
「気にしなくてもいいよ。どうせ起きないって」
そう言いながらスイッチを押す。彼は後ろを気にしているそぶりを見せたが、私は構わずにボリュームをやや大きくした。
巡る星の意味さえ知らずに
いつかこの目が閉じられる
例えば一日だけでもいい
旅が長く続きますように
印象的なピアノの旋律と親しみやすい女性ボーカル。途中から聴き始めた曲だったが、私はこの歌詞に強く惹かれた。曲が歩を進めるたびに心の揺れが空気抵抗に逆らいながら少しずつ大きくなった。誰が歌っているのかも曲名も知らないのにどうしてだろう。自分の中で起こっている変化が不思議だった。
巡る星に願いを込めるよ
明日もあなたに会えますように
やがて曲は突然にして強引にフェイドアウトし、ありきたりな広告へと移行した。結局、欲しい情報は何も得られなかった。胸の奥にちょっとした靄がかかり、知りたいことだけ焦点がぼける。私は軽くため息をつき、窓の外に視線を移す。気が付けば辺りはかなり暗くなっていた。時折すれ違うヘッドライトが眩しく、そのたびに私は顔をしかめた。
「いい曲だね、さっきの」
聞き逃しそうなほど小さな声で彼が言う。
「え?」
私は思わず言葉を失い、ただ横にいる彼の顔を見ているだけだった。
「いや、さっきの。・・・ ・・・いい曲だなと思って」
「・・・ ・・・」
「そんなことない?」
前を向いたまま穏やかに問う彼。私は何度も首を横に振り、ミラー越しに後部座席を確認する。二人はそれぞれがまだ深い夢の中だ。
「・・・ ・・・おんなじこと考えてた」
「そう」
「史也くん、何て曲か知ってるの?」
「知らない。片桐さんは?」
「あたしも・・・ ・・・、知らない」
「そうかあ。実は片桐さんに教えてもらおうと思ってたんだ」
そう言うと彼は恥ずかしそうに微笑んだ。
私は何も言えずにいた。
何故なら、私はその瞬間に恋に落ちていたから。
偶然知らない曲を一緒に聞いて、彼が自分と同じようにいい曲だと思ってくれた。
そんなことで・・・ ・・・、本当にたったそんなことで、私は高須史也に恋をしたのだ。
(続く)